2021-04-20 22:15
言葉にしたとたんに、そこには違うものごとは同時に存在できない。
文学としてのことばにならそれができるけれど、説明のための言葉には、それができない。
当たり前だ。
同時に色んなことが含まれてしまったら、説明にならないのだから。
わたしもそうだけれどみんな、「言葉」という同じ道具を使っていると思っている。
レゴブロックみたいに、レゴのセットはどの袋にも同じ種類のブロックが同じ色数だけ入っていて、それを使って色んな種類の言葉を組み合わせて使っていると思っている。
でも本当は違う。
ほんとうは、お互いもっとぜんぜん得体のしれないものだ。
ことばは多面体みたいに、ほんとうは無職で表面に当たる光や見る角度や見る人によって、全然ちがうふうに光っている。
さんざん問題があって、さんざんそのために時間を使って、もちろんそれは自分のため、自分が大事にするもののためには必要なことだったけれど、一緒に生活を成り立たせている人に対してはひどく負担をかけた。
1年前に、もうこういうことに関わって自分をすり減らすのはやめると約束したのに、私はまたどうしても黙っていることができなくて、今度こそは彼に黙ってこのことを終わらせようと思った。
けれど、ただただ何もかもが悲しくなってしまって、ざあっと涙が出てしまって、こりゃいけないと思ってトイレにかけこんだんだけどすぐに気づかれてしまった。
もう関わらないと決めたのにごめん、と理由を話すと、ごめんじゃないよ。誰かの尊厳を守るために行動するのは何よりも大事なことだよ。自分の筋を通すことをやめてはいけないし、俺だってそうすると思う。と言ってくれた。
でも私が悲しくなって泣いていることについては、そんな風な傷つき方をするような入れ込み方は良くない。大人が集まっている場所なのだから、自分だけが背負い込みすぎるのは、関わっている相手への侮辱だよ、と言ってくれた。
ほんとうにそうだ。
自分を守れる強さがなければひとを守れない。
自分が我慢したり、自分はどうなってもいいと無感覚になったり、なんでも許してしまうのはぜんぜん強さじゃない。
そんなこと高校生くらいのころから知っていたはずなのに何十年も失敗ばかり繰り返している。